日本の8月15日

 8月15日という日が日本にとって特別な日であることを意識している人はもうほとんどいないかもしれない。街を行く若者に尋ねても日本の終戦記念日であると答える者より、おそらくお盆休みの予定を答えてくる者の方が多いだろう。それは無理のない話だ。戦争の体験がないのだから・・・。また教育もどれだけ行っていたか。歴史の教科書の何パーセントをこれに費やしていただろうか。マスコミも15日に近付くと思い出したように時の首相の靖国神社参拝について大騒ぎし、過ぎると潮が引けるように静まりかえってしまう。
  きっと若者は”古臭いこと”と思うだろう。でも兵士も民間人も戦渦に巻き込まれていたのは老人ではなく、君たちと同じ世代の若者だったことを忘れてはいけない。特攻兵には17歳の少年もいたのだ。
  だが戦争体験者は年老いた。伝えようにも相手もなく場もなく静かに消えていこうとしている。あの時の思い出をまだ胸の中に灯しながら・・・
  ジャパンプラザはいみじくもこの8月に公開することになった。この時期に公開に至ったのは決して意図したものではない。また戦争の是非を今ここで問うつもりもない。ただ現実にあったことを冷静に受け止め、日本の過去を振り返ってみたいだけである。
  今ここに5名の方に当時の8月15日のことを述べてもらった。海軍下士官、勤労動員された女学生、特攻隊員の学徒兵、14歳の中学一年生、高射砲隊の21歳の兵士である。それぞれ境遇が全く違うし終戦の感じ方も異なる。資料とするにはあまりにも乏しいが、この5話を終戦の記念として捧げたい。

●ある海軍整備下士官の8月15日

●ある女学生の8月15日

ある海軍整備下士官の8月15日

 私は旧制中学卒業後の昭和16年5月横須賀海兵団に志願兵として入隊した。
そして同年10月横浜市金沢区富岡町にある横浜海軍航空隊に三等整備兵として配属された。
同年12月日本の委任統治領であったマーシャル群島のウエッゼ島イメジに本隊のあった横浜海軍航空隊基地に、対アメリカ宣戦布告後の戦闘に備えて転属した。
部隊は12月8日ギルバート諸島のマキン島に無血上陸した。しかしギルバート諸島のマキン、タラワ両島に配備されていた第四艦隊指揮下の横浜海軍航空隊残留部隊を含む海軍守備隊は、戦後の米軍情報によると昭和18年11月23日と25日にそれぞれ玉砕(全滅)したことが確認された。これは米領アリューシャン列島の18年5月29日の玉砕以来第二の玉砕だった。
  私は17年1月から2月にかけて飛行艇(水上で離発着する飛行機)基地建設の先遣隊として、日本の国際連盟委任統治領グリニッチ島、米領グアム島(現在米国準州)、同サイパン島(現在は米国自治領)、委任統治領トラック島 そしてオーストラリア委任統治領ニューブリテン島(現在パプアニューギニア)ラバウルと逐次転属した。
  昭和17年5月、兵力対等の日米両機動艦隊は珊瑚海で相手を確認しながら最初の航空決戦を行い、ほぼ引き分けになった。この海戦中に私は熱帯性マラリアを発病し、18年7月10日病院船で内地送還となった。
しかしこの時私に餞別を出してくれた戦友達はソロモン諸島の一つフロリダ島のツラギに転出したがガダルカナル戦の前哨戦となったツラギ戦で昭和18年8月7日米軍上陸部隊と交戦の末全員玉砕した。
  私は帰国して横須賀海軍病院に入院しその後霞ヶ浦海軍病院に転院したが、療養生活中は前線からの数少ない帰還者と言うことで、慰問団が来た時などは体験談を慰問団に語ったりして優遇された。又、俳優や歌手達の慰問の他には力士の羽黒山の記憶が鮮明に残っている。
  療養を約1年続けた後退院して青森県三沢の海軍航空隊、そして宮城県松島の海軍航空隊に転属したが、昭和19年1月土浦海軍航空隊で編成された部隊の下士官として商船を改造した航空母艦に乗り込みマレー半島アイルタール海軍航空隊基地に向かった。その途中潜水艦に襲われ魚雷攻撃を受け、対潜哨戒をしていた私は、直進してくる魚雷を見てこれが最後かと覚悟したが、改造商船であったため吃水が浅く、魚雷は艦底の下を通り抜け命拾いをした。
  アイルタール基地では私は整備下士官として飛行機の整備に従事した。海軍の特攻隊は神風特攻隊の敷島隊が昭和19年10月25日にフィリッピンのクラーク基地からレイテ海戦のため飛び立ったのが最初だが、アイタール基地でも私は毎日のように特攻隊を見送った。
  昭和20年8月15日現地で終戦だったが、しかし真相が分かったのは10日ぐらい後だと思う。そして終戦時の階級は海軍一等整備兵曹だった。
  英軍の捕虜となり私達はマレー半島を南下し更にシンガポールを経由して、赤道直下のインドネシア領(当時はオランダ領)レンバン島(無人島)に送られ 凡そ1年間の抑留生活を経験した。
そして当初は3日分の食料しかなく飢餓に直面しながらジャングル地帯開発のため強制労働が続き、極度の栄養失調により心臓脚気で病死者が続出したが、4ヶ月後視察にきた英軍の担当者は日本兵を餓死させるためこの島に送ったのではないと言って、それから米、英、豪軍の戦闘糧食が配給され我々の栄養状態も改善された。配給された糧食の質から考えても日本の敗戦は明らかだと思った。
食糧不足の為に餓えと病気や怪我に悩まされながら、人跡未踏の島を開墾し農場や道路を造る日々の作業は筆舌に尽くし難い物心両面にわたる苦悩の連続であった。しかし、立派に出来上がった農場や道路をみると日本人の能力も素晴らしいものだと感じたものであった。
昭和21年10月復員船で和歌山県田辺港に入港、列車の中で戦災痕が残っている各都市を眺めながら、故郷の群馬県太田市に帰郷したが、母は私の生還を信じて待っていてくれた。
  あの激戦の中、入隊時の戦友が殆ど玉砕したのに、五体満足で日本に生還できたのは、今振り返っても不思議としか思えず、今更ながら我が身の幸運を感謝している。

ある女学生の8月15日

昭和20年8月15日は日本の重大な生まれ変わりの第一日。
この日は私にとっても感無量の日でしたが、60年近くの遥かな昔のことでもある。
当日の記憶はおぼろげながら、戦争末期前後の頃を想い起こしてみる。
19年の3月末、私の家族は戦禍を避けるためそれまで住んでいた大阪市内から郷里の富山へ疎開した。我が家は市内の最も東寄りにあり、あたりは田や畑という所だった。
その頃は各地への集団学童疎開が盛んで、富山県へは4,853人との記録がある。親から離れての生活はさぞかし心細かったことだろうと想像する。
私は2年生の4月から富山の女学生となり、学校では生徒全員で遠足ならぬ草刈り作業に野山に出かけたりした。干して軍馬の食糧にするためである。慣れない私には大変な作業でクラスメートがよく助けてくれた。
当時働き手の男性は皆軍人となり、国内は高齢者、女性、子供という状態で、人手不足の補給に女学生だった私達も学徒勤労動員でそれぞれ軍需工場へ働きに出た。私の場合は2年生の終わり(満14歳)から3年生の8月15日(満15歳)までの動員生活だった。
近くに在った工作機械メーカーの不二越鋼材工業株式会社(現在は株式会社不二越)は、戦時中は軍需工場として航空機の部品を製造しており、私はその工場で歯車の研磨作業に従事する毎日であった。
「この小さな歯車が戦闘機の一部となってお国の役に立つのだ」と信じながら。
ある日の地方新聞に職場の花と題して学徒動員生の記事が載り、その中に私の働く姿があってびっくりした。はがき位の大きさだったと思う。
20年7月26日富山市内に米軍機1機来襲、20戸焼失、爆風のため50戸倒壊し居住不能、更に8月2日未明の大空襲で市内の98%が焼失、死者2,275人、罹災者約11万人と富山県史に記録されているが、工場も我が家も市の東の外れに在った。
空襲の夜は、常時用意していた必需品を積んだ乳母車を押しながら近所の人達と真っ暗な道を更に東へと急いだ。時々後ろを振り返ると市内の空は真昼のように明るく、B29の爆音と共に落ちる焼夷弾が花火のようにきらきら光っていた。
課題の8月15日、いつもの通り工場に出勤した私たちは「陛下の重大放送がある」と知らされ、全員ラジオの前に緊張して並んだが陛下の声はよく聞こえなかったので何事だか理解できなかった。
上司から、今のは敗戦のお言葉であったとの説明を受け、その衝撃にしばらく空白の時が流れ、やがてそれぞれの家に戻ったように覚えている。
戦争が終わったからといって生活は直ぐに回復するものではなく、空襲で街中も校舎も焼け、街外れに在って焼失を免れた会社の寮舎でとりあえずの授業が再開された。
堅い床に座り2段ベッドにも数人が乗り先生を斜め下に見下ろして、数少ない教科書を分かち合いながらの勉強である。それでもクラスメートと共に、学べる日が到来したことは最高の喜びであった。
極度の物資不足、食糧難も全てが戦争に勝つ為の我慢でした。“欲しがりません勝つまでは”の標語は今でもはっきり頭の中に残っています。

ある学徒兵の8月15日

 その日は暑い日で、何かあるらしい、ということは、われわれ昭和20年4月15日入隊の新兵 にもわかった。俺は大学予科(昔の国立の高等学校に相当するもの)を卒業し学部に在学中だったが、北海道へ農家の勤労動員に行かされ、現地で分宿していた農家で召集令状を受け取った。東京渋谷の東部12部隊に入隊したが水戸が米軍の艦砲射撃を受けたため、敵前上陸に備えるため水戸付近の農家に分散して駐屯することになった。どういうわけか志願しないのに 敵前上陸をしてくる敵部隊を想定しての死ぬことを前提にした特攻隊(特別攻撃隊)になっていた。俺の隊は東部12部隊傘下の中隊規模の山砲部隊だったが、大砲とはとても言えない小さな砲らしいのが1門あったがしかし肝心の砲弾はなかった。
 敵前上陸をしてくる米軍の戦車に対して、蛸壺(一人用の塹壕)を掘って待機して爆薬を戦車に投げて、これを爆破するのだ。戦闘訓練は30センチほどの四角い箱に砂をぎっしり入れたのを、爆薬に見立てての訓練だ。俺にはそれが重くて、とてもそれを敵戦車の下に投げ入れることなど出来ない。上官に
「そんならそれをもって戦車の下に潜り込め。」と命令されたが、爆薬もろとも轢き殺されろと言うことだ。これが、特攻隊なんだなと思った。
 俺は いよいよ、人生を終えるその日がきたのかと覚悟した。
待てよ俺は女を知らないで死ぬのか、特攻隊員らしからぬことがひらめく。三つ子の魂100まで、この頃既に俺には好き心が備わっていたらしい。
 休憩の合間に農家の裏に行くと20才ぐらいの鄙にはまれな女性が一人たたずんでいて「私は男をしらない」という表情で俺を見つめた。
 俺は彼女に近づき重大放送が有るというのを聞いていたので、「今日、何か起こるらしいね」と話しかけた。
「そうね」女はうなずいた。
 死を前にした処女(処男)の本能だろうか、異性とふれあいたいという感情から彼女の手を握ると、彼女も力をこめて握り返してきた。(ような気がした)
「いいか?」と言った。「うん」とうなずく。俺は、夢中で口を相手の口にくっつけた。相手は抵抗もなく、されるがまま口づけを受け、口からはあぶくがあふれるくらいに出てくるのを感じた。
  丁度そのとき「天皇陛下の放送があるそうだ」という戦友の声が聞こえ、あぶくのあふれる口づけどころではないといっぺんに我に返り、 宿泊農家に急いだがそこにはラジオはなかった。道端の家からラジオ声が聞こえた。
「耐えがたきを耐え忍びがたきを忍び・・・」後でそれが敗戦を告げる天皇陛下の玉音放送だと分かった。
俺にとっても、あぶくをそのままに、青春の苦しみの耐えがたきを耐えた、まぼろしのような一日だった。
翌日上官である見習士官が軍刀を下げて俺の居た農家にやってきた。
彼は「敗戦になった。各隊員はそれぞれ帰省して良い。お前たちも一階級昇進を許す。」俺達は最下級の二等兵から一等兵に昇進したが、階級章は渡されず気持ちだけ一等兵になった。
 これはポツダム宣言を受けた後、日本軍人全体が一階級お手盛りで昇進したので、昇進後の階級をポツダム少尉とかポツダム中尉とか呼ばれたが、後に軍人恩給を受け取る上級将校や将官は、これによって終身で見れば膨大な年金額を余分に貰うことになったのである。
 敗戦後日本がいったいどうなるかは、同宿していた6人の新兵にはなにも想像できなかった。そして、 あぶくまでだした口づけが 途中だったことは俺には心残りだった。
東京を通って帰省するのだが東京には米軍がいて殺されるかもしれないと言い出す兵士も居た。 東京の女達は米軍兵士に犯されるのを恐れて、頭を丸坊主にしているらしいという噂も流れた。
帰省に際しては私物と隊からの支給品を持ち帰る事になるらしい。実家にお土産を考えて、水戸付近は煙草栽培農家多いので母の好きな煙草にすることに決めた。
 煙草と言っても畑から切り取ったままの煙草の葉である。
「干して刻んで紙に巻けば紙巻き煙草になる」と物知りが言っていた。そして2,3日すると農家から注文した煙草の葉が持ち込まれた。それを毛布でくるんだら炭俵(直径50センチ長さ1メートルぐらいの円筒形)になった。汽車に持ち込むには大きすぎるが、今更捨てるわけにもいかない。それを担いで汽車と電車を乗り継いで帰った。帰り道では復員で故郷に帰る兵隊姿の大勢の人達と出会った。途中、東京は焼け野原で、急に実家が無事かどうかが心配になった。
米軍の日本上陸は8月の末で、まだ東京には来ていなかったし、警察も敗戦のどさくさでやみ物資の取締もやっていなかったようだ。煙草を担いで東京を通り抜け千葉県船橋の懐かしい我が家にたどり着いた。お袋は泣いて私の生還を喜んだ。
土産の煙草の葉は二階の屋根や狭い庭の日の当たるところに並べて干した。そのうち近所のお百姓から、
「佐土さん、あれは煙草じゃないの」と聞かれて、「そうです」と得意顔に答えた。
「大変だよ。煙草の葉はご法度、警察に見つかったらひどい罰だよ。」と言われた。
 その当時我が家の隣は警察の運動場広場になっていて、毎朝警察官が持ち物の点検をしていた。知らないというのはいいもので広場から敷き詰めた煙草の葉は丸見えだったのに、船橋の警察官には煙草の葉を知っている人がいなかったのか、何のおとがめも受けなかった。あわてて葉っぱを片付けたのは言うまでもない。
当時は煙草は配給制で、それも少ししか配給されなかったので、近所の人達に配った煙草の葉はずいぶん喜ばれた。
俺が兵隊から持ち帰ってよろこばれたのは、毛布一枚と煙草の葉だけだった。


敗戦の経験〜〜ある中学生の8月15日

 1945年8月15日、私は中学校の1年生で朝鮮の仁川にいた。仁川は朝鮮戦争の時マッカーサーが逆襲のため上陸作戦を行った港でソウルから列車で1時間あまりのところにある。現在朝鮮半島は南を韓国、北を朝鮮民主主義人民共和国と別々に呼んでいるが、当時は朝鮮半島は朝鮮と呼んでいたのでその呼称を使うこととする。
 1944年の3月、帝国繊維株式会社の本社に勤めていた私の父は、仁川工場に転勤を命じられた。東京では米軍機による第一回の空襲があったが、まだ大空襲は始まってなかった。東京からの疎開は始まっていたので、私たち一家は疎開でもするよなつもりで仁川に転居した。そして8月15日までは戦争の被害には遭わなかった。しかし、8月9日のソ連参戦によりソ連国境に近い日本海側の羅津、清津という都市が次々と陥落し、戦火は数日の内に私の住んでいた仁川に及ぶと予想されていた。
 しかし、中学1年生であった私の生活は、2年からの勤労動員に備えて夏休みもなく、毎日詰め込み授業が行われていた。
 そして、8月15日がやってきた。その日は日曜日で学校は休みだった。昼に行われた天皇の玉音放送は、雑音が多くて良く聞き取れなかったが、多分もっとがんばれという事だと思っていたが、夕方のラジオで日本が負けたことと、日本の領土は本州、四国、九州、北海道とそれに付属する諸島ということで、自分の住んでいる朝鮮半島についてはラジオはなにも語らなかった。一瞬にして自分の住んでいた土地が外国にしまったのである。

 その翌日、老いも若きも老若男女の大群衆が即製の太極旗(現在の韓国の国旗)を掲げて朝鮮独立万歳を叫んで町中を大デモンストレーションを行った。
 昔朝鮮では万歳事件があって、「朝鮮独立万歳」を叫んで民衆が蜂起したという話は聞いていたが、当にその再現だった。昨日まで同じ日本人だと思っていた人たちが爆発させた民族のエネルギーを見た。
 敗戦から約1週間後、米軍がきたというので裏山に登ると数百隻の輸送船が仁川沖に停泊しているのが見えた。仁川は干満の差が10メートルもあってで接岸用のドックには少しの船しか入れないので、ほとんどの船が沖合に停泊したのである。
 その翌日米軍は徒歩と上陸用舟艇(ダックと呼ばれていた)で大部隊が上陸してきた。父の勤めていた工場は米軍キャンプとして接収された。それから数日後そこで日本軍の武装解除が行われた。多分これは儀式だったのであろう。朝礼台の上に日本軍の指揮官が立って、完全武装した日本兵に対して、「銃を置け。」「弾薬を置け。」「帯剣をはずせ。」と号令をかけ、それに従って兵隊達は武装解除をしていくのである。そしてその周りを米兵が取り巻いていて、最後に武器弾薬が集められて儀式は終わった。仁川郊外にあった米兵の捕虜収容所が今度は日本兵の収容所になったが、日本兵達は余り拘束も受けず自由に収容所から出入りしていた。
 我が家の生活は一変した。当時帝国繊維株式会社仁川工場の事務課長(一般の会社の総務課長のようなもの。)をしていた父は、工場を占拠した米軍との交渉の当事者になって、事務を進めていったし、工場の前にある社宅の我が家にも父と知り合った米兵がどんどん訪れる様になった。父は大阪高商を卒業していて、朝鮮半島南部の帝国繊維のなかで唯一英語で事務が出来る人間だった。
 また、母は神戸の出身で米騒動で有名な大正時代の新興財閥鈴木商店に勤めた後、スイス系の商事会社でアメリカ人の女性と一緒に英文タイピストとして働いていたという経歴の持ち主で、我が家に遊びにくる米兵達も母の英語の方が父の英語よりずっと分かりやすいと言っていた。
父は大量の朝鮮人従業員の退職金支払いなどの工場閉鎖業務を処理した後、朝鮮半島南部の会社施設の米軍への引き渡しのため京城支店と仁川工場で毎日忙しく業務を処理しなければならなかった。会社のほかの人たちはする仕事もなく毎日ぶらぶらと暮らしているのとは反対に、父は京城に何日も厳寒の泊まり込んで働き続けた。
10月に入り、郊外の社宅では治安上の問題もあり、引き揚げについての情報の伝達も不十分なことから、仁川市内の日本家屋に移転することにした。
 引き揚げに伴う苦労は外地に住んでいた多くの人たちが語っているが、引き揚げ列車に乗るまでの我が家の生活は贅沢三昧だった。もって帰れるのは一人千円の日本銀行券ともてるだけの荷物である。引き揚げのため全ての家財道具を売り払っても、それを全て使い果たすしかない。毎日美味しい料理店や今まで戦時下で食べられなかった食品を求めて、町を歩き回るのだった。
 引き上げの苦労は11月25日引き揚げ列車に乗ったときから始まった。仁川から釜山までの貨車の旅、釜山での倉庫暮らし、引き揚げ船で着いた博多の港、そこからは無蓋貨車で大阪までの長い旅、関門海峡トンネルも無蓋貨車で通り、広島や神戸、大阪の焼け野原を見て博多から24時間以上かけて京都に着いた。そこからは普通列車で帝国繊維の工場で社宅や寄宿舎が焼け残った岐阜県の大垣工場に落ち着いた。
 そこで初めて出された雑穀入りのお粥を食べて、厳しい敗戦日本の現実に直面した。
 私の父は米軍に施設を引き継ぐための極寒の京城での激務がもとで結核にかっていて、そのこともよく分からぬまま1946年単身で東京の本社に勤務したがが、翌年春大垣に帰り夏に死亡した。
仁川では米兵がチューインガムやチョコレートを道ばたで子供達にばらまいても、私達は日本人だからと決して拾わなかった。ところが、大垣では争ってそのチューインガムやチョコレートを拾っていた。やはり日本は負けたのだとその光景を見て私は感じた。 私が大垣にいたころ、ある人が日本が負けたとき一番参考になった本は、「風と共に去りぬ」だったと語った。「あの本には国が負けるときのこととそれから復興して行くときのことが書いてある。それは日本人にはまったく予想出来ないことだったからと。」

緑山にて〜〜ある青年兵士の8月15日

 日ソ間には不可侵条約(昭和15年 松岡外相とスターリング)があり、北からの侵攻は絶対にないと堅く信じていた日本軍の敵は米軍であり、我高射砲隊の主目標はB-29爆撃機の撃滅であった。
 8月に入ってからは一層、陣地構築に拍車がかかった。大連市を見下ろす標高700メートルくらいの緑山の頂上に高射砲陣地を築くため、昼夜を問わぬ突貫工事が進められた。主な作業は基礎を作るための”穴掘り”である。最初は太いノミを一人が支え、一人が重たいハンマーで叩いて少しずつ掘り下げていくという極めて幼稚な手法のため、交代で一日フルに作業をしても20センチを掘るのがせいぜいであった。岩は花崗岩で非常に堅く、肌からは冷たい汗が落ちる程の苦しい作業が連日続いた。
 7月から上等兵候補者の教育係りを命ぜられており、市の中央にある本部から、この頂上まで毎日往復駆け足で登り下りしていた。これも耐熱と忍耐を目標にした苛酷な訓練の一部であった。
 困難を極めた作業も数日後の夕方には次の段階に入り、あちこちの穴からダイナマイトによる爆破音が聞こえてくるようになった。ダイナマイトの爆発音とともに山の形が少しずつ変わっていった。そんな光景を見る時、一種の快感と新たな希望が生まれた。
 
 戦況は日増しに厳しく、一刻も早く完成しなければならない状況に迫られた或る日、司令官より部下2名と共に郊外の鉱山に3日間、削岩機の講習を受けに行くように命ぜられた。現地で新型の削岩機を見て驚いた。1メートル位の穴はあっという間に掘れてしまう。それには強力なコンプレッサが必要だったが、戦中であり民間も快く協力してくれたので、数日後には山の数箇所から一斉にボーリングする削岩機の轟音が、全山をこだまし見る見る内に頂上が削り取られていった。
 爆破作業も順調に進みだした或る日の正午前、突然、削り取られて出来たばかりの洞窟前に全員集合が命ぜられた。重大放送がある、ということしか告げられなかったので、何が行われるのか皆目想像もつかなかった。

 通称「並四(ナミヨン)」といわれるラジオから雑音に混じって途切れ々々にかすかに聞こえてくる陛下の玉音(お言葉)は、ポツダム宣言を止む無く受諾したこと。それに、特に印象に残った言葉は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、平和日本の建設につくすよう」と述べられたことであった。
放送が終わっても、それが何を意味するのか、これからどうなるのか、そして自分はどうすれば良いのか全くわからなかった。
 並居る将校も下士官も何の反応も示さない。何の指示もない。そんな沈黙が長い時間を刻んだ。戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る、という戦陣訓の教えに忠実に従うのみの軍人には、敗戦という体験が全くないばかりか、自ら判断して行動するということは全くできなかったんだと思う。
 それからは時間の経過と共に、将来に希望を失った者や不安に悩んだ者の一部は隊を離脱し、果てしない曠野に去って行った。こうした運命を辿った者は故郷の地を再び踏めなかった者も多かったと思う。

21歳の夏であった。



 


Copyright(C) 2001 Japan-Plaza All Rights Reserved